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箭幹(やがら)八幡宮と矢部の獅子舞

町田市指定無形民俗文化財  1963.10.22

矢部八幡宮の獅子舞は、一説には元亀・天正のころ(1570年代の戦国乱世のころ)から始められたといわれる。獅子舞を関東に流布したのは小田原の北条氏であるともいわれるので、あるいはかなり古い伝統の流れを引くものかもしれない。

 この獅子舞は、木曽や矢部の例祭や奥宮開扉の大祭などに行われる。舞は「道行」とお庭舞」とにわかれており、特徴は獅子宿から社前にむかうときの「道行」と木曽町を御輿幸のとき先導する役目をすることである。また、獅子舞をするものの腰にさした五色の御幣をもらった人は、その年は無病息災で家内安全であるといわれている。  (町田市教育委員会)

.矢部(やべ)八幡宮(忠生村誌より)

矢部八幡の由緒について、縁起、宮記をたどると、

1) 推古24年矢部八幡宮が勅令によって勧請された由を記しています。これは、推古帝が大患のおり、諸国の旧社に奉幣祈祷があり、平癒本復ののちに、修造の役を賜ったといわれ、このとき、八幡社も再興の資を賜ったらしく、故にこのこと以前にも社祠は存在したものでしょう。『諸国郡にみことのりして』とありますが、平癒報謝、民心安定のみでなく、同時に改新の目標であった公地公民制、私有地の公収、戸籍の作成等の

普遍化があげられます。 やがて律の令政治が行われ、この身分制度の特色として、良民と賤民にはっきり区分がなされました。一般農民には、口分田を与えられ、兵役、税負担を負って、品部及び雑戸賤民との通婚が禁ぜられ、そのため思わぬ悲劇も生まれ、

<わが駒を山野にはなしとりかねて多摩の横山かしゆからむ。>

<稲つけばかがる吾手をこよいもか殿のわく子がとりて嘆かむ。>

こうした悲哀と嘆息ともなったのでしょう。

2) 康平五年(1062)源義家が、奥羽より還る途中、木曽に宿り、戦勝を謝し、延寿を祈願して、本社、末社ことごとく再興したと伝えます。

3) 保元平治の乱前、源義賢と義平が木曽柄沢に対峙し、両軍乱戦死闘旬日及んだが、同族相争う非をさとり、ともに軍を退き、神前に和睦をちかい、記念に羽矢を添えて屋根を葺くなど社殿を修理し箭幹(やがら)社八幡宮とあらためたといわれます。このとき軍馬をまとめ滞留したのが木曽であり、それ以後木曽駅として栄え、全所に矢拾観音があります。<中略>

『箭幹八幡宮は、多摩丘陵地帯における最もよく規模の整った神社と見られる。往古の鎌倉道に沿うて一の鳥居があり、それより約二町にして二の鳥居を設け、さらに進めば右に鐘楼、左に神楽殿、中央石段上に随神門を設け、更に拝殿、本堂となっている、これらのうち随神門は、この神社のうちで最も古い建築であるが、本殿とともに江戸時代末期のもの。神仏混合建築で、三斗組で間斗束を配し頭間下に幕股を置き、その下虹梁を設けるという珍しい形式となっている。次に本殿であるが、流造の形式、正面に唐破風をつけた一間社の小規模のもので、全体に覆堂がかけてある。正門扉の両脇に龍の彫刻を附し軒下の斗桝は三斗組、縁下の腰組は三手先の挿肘木の手法となり、勾欄、脇障子付、総ケヤキ造、槍皮葺である。 この神社創始年代は不明であるが、祭神は応神天皇とつたえ棟札に寛永(寛政と書き改められている)二年、(1265)享保五年(1721)享和三年(1803)大正四年等四枚である。寛文五年銘で高木伊勢守献納の鐘があったというが、今次の戦争で献納して現存しない。 要するに両部神道系の神社として両部鳥居、鐘楼等があり、また随神門に卍文等が文様中に見られる。』(都文化財調査田辺氏)・・・以上忠生村誌より

1570年代の戦国乱世・北条氏
 獅子舞の起源は中国の伎楽・舞楽から影響を受けました。通常獅子舞は二人で一つの獅子を演じることが多いのですが、東日本ではその後頭に獅子を腹部に太鼓を付けて舞うひとり立ちの三匹獅子舞が定着したと言われています。室町時代の末期になると現在に伝わる原型が出来、400年ほど前のこと北条氏照氏は、戦に出陣する武士に戦勝を祈願して三匹獅子を、荒々しく勇壮に踊らせて闘いの志気を高めたと伝えられている。そして、五穀豊穣・無病息災などを祈願して平和な祈りを込めた獅子舞、そのときの思いによっていくつかの舞い方が考え出されたと伝えられる。北条氏照は、獅子舞が好きで酒盛りの席などにも舞を踊らせ自らも笛を吹いたと伝えられる。
 現在も、木曽町には、先祖にそれぞれのゆかりを持つ家々が残っている。

獅子頭の歴史と特徴

 獅子の顔は、各地区様々であるが、そのつくりは、普通頭の後部を竹等で籠状に作られている。全体を軽くするためと思われる。矢部の獅子は、素材は、桐材でひとつくり

になっているのが、大きな特徴で珍しいものであるらしい。表面は、漆が塗られている。 獅子には修理の記載もされている。近年、漆の一部がはがれたために浅草にある修理店に、そのことを依頼したところ「修理をすると、現在の歴史を刻んだ貴重な趣が、失われる。やめた方が良い」と、逆に助言された経緯がある。

矢部の例祭

  矢部町の祭礼は、かっては、10月に行われたこともある。農作業の合間、特に取り入れや、養蚕の作業を、考慮したものと思われる。作柄の悪い年は、奉納の演芸等は取りやめとなり、“くいまつり“と称して獅子舞だけの奉納を行っていた。

 現在は、毎年例外なく行われ、9月15日の神社の例祭とともに行われていたが、平成16年より老人の日と決まった経緯がある。

奥宮開扉の大祭
  33年毎に、大祭としてのお開帳がある。その間(17・8年)に中開帳がある。両者とも6、三町(木曽町、根岸町、矢部町)の氏子が、ともに催している。氏子にとっては、格別の思いをもって行われているといってよいと思われる。昭和38年の中開帳は三日間にわたって行われた。土曜の学校は、特別に休みとなった。奉納演芸として、村の青年部が、神楽殿の右手に花道を作り芝居を打ったりした。夜店の屋台は、様々一の鳥居から境内を所狭しとうち並び、盛況であった。

道行、お庭舞

笛方:カタカナの部分、唄方:太字の部分

*通行(笛)

*踊り込み(笛)
一 なりをしずめて、おききやれな
我等がささらの、うたのしなきけ


ニ、このあそびは、八幡様へのごほうらくな
  氏子はんじょうに、まもりたまえ


三 みなみな申せば、かぎりなしな
たいこをはやめて、あそべともだち

*オカザキ(笛)

四、たいこのひょうし、おにわのひょうし
ひょうしをそろえて、みせ申さいな


五、やまがらがな、山にはなれてやつづれてな
こなたのお庭で、はねをやすめる

*シャギリ(笛)

六、早稲田のひつじが、ほにいでてな
 ふただの秋にぞ、あをぞめでたき

*シャギリ(笛)

七、おくやまのな、松にからまる、つたのはもな
 えんがつきれば、ほろりほごれる

*シャギリ 笛)(最後のヒャローヒャー吹かない)
*ひとりでのオカザキに入る (笛)(二回繰り返して吹く)

八、きょうからくだる、からえのびょうぶ
  ひとえにさらりと、立て申さいな

唄が終わると同時に*ピーヒャロ(笛)

九、ひとつをすごして、のうかいせいな
  いぜんのとうりに、のうかいせいな
 唄と一緒に*はやオカザキ
*はやオカザキ(笛)

十、くにからは、いそげもどれとふみがくる
おいとま申して、いざかえろうな 

* はやオカザキ(笛)

十一、たいこのどうを、きりりとしめて
   おにわでささらを、すりこうどうな

*オワリノ笛 (笛) 

獅子宿
 六十数件の村内各戸が一年毎に、回り番で受け持った役目。宿は、獅子頭をはじめとして半纏や稽古帖を保管する役目とともに、稽古時の接待、場所の提供等を行ってきた。近年、神社に宝物殿が、出来たのをきっかけとして、一年間の半纏と稽古帖の保管と祭礼当日の獅子舞関係者の接待のみを行うようになった。獅子宿を受け持った家では、盗難・焼失・損傷に非常に気を使った。一生に一度のことであるが、年配の方々の“本当に大変だった”という話から、村中で大切に守ってきた思いが伝わる。

「道行」から「踊りこみ」までを、宿の庭で舞うことによって宿へのお礼としている。

先導する役目
 三匹の獅子と幣追いが腰につけた御幣が、“露払い”の役目を象徴している。
獅子、神輿、山車の順に並んでの一行は、なかなか見ごたえがある。途中休みをはさみながら町内を巡行する時間8時間あまり、その間、絶えることなく“道行”が行われる。
 現在伝えられている獅子頭は、現在の木曽町の3家(北条家家臣ゆかりの)によって奉納されたものといわれている。そのこととあわせ、かって矢部町が、木曽村であったことの由緒を伝える。現在も、町内会・自治会の枠をこえて行われていることは、貴重なことだと思う。

五色の御幣

 15センチほどの篠で作られた棹に、五色の和紙を上部にはさむ形で取り付けられている。三匹の獅子と幣追いの腰につけられている。踊りが佳境に入るとともに、振り落とされてしまう。それを見物人は、もらうことができるが、さきを争って拾われる。

 ***矢部獅子舞保存会の資料を参考にさせていただきました。**