能面の歴史ー2

翁面
現代の能面の中でもっとも初にできた面で、神を表現したと言われている。
十世紀頃には存在したとされている
十一世紀には、民衆の中から生まれる「田楽」「猿楽」が盛んになっていく。
田楽はそうとう昔から、農民の間に芽生えたものとされている。

田楽と猿楽はおたがいに影響を与え合いながら併存し、時によって田楽が優勢になったり、ときには猿楽が、隆盛となり、能楽へ発展していく源流となり、やがて能楽は出現する。
田楽 起源は古く、的確にはわかっていないが、舞楽伝来以前から農民とともにあったと言われている。
舞楽はやがて秘密主義の殻にとじこもり、一応安定した生活の中で、 惰眠を賞って新鮮さと発達を失なってゆくにっれて、農民が行った 即興的な踊りや唄から起こった田楽が新たな魅力として興り伝って行った。 これは貴族の政治が腐敗し、実際の執行は、地方豪族に任せられてい たことや、生産面を握っていた豪族と農民の結合が中央に進出、 必然的に社会生活、精神構造を大きく揺さぶることとなる。 田楽はもともともので、豊作を祈り、神に感謝することを目的と ていたもので、やがて儀式的な形として定着していく。
これは新興勢力が、その性格に適した形の田楽を伴ったと いう背景をもっものであるが、さらに浸透の遥しさや広範な理由 の一っには、大衆信仰と結びっいていること、例えば御霊会には 必ず田楽を演じたこと等が考えられる。
発生は七世紀ごろといわれ、町準耕田の礼にその源を見出すことができ、十世紀の終りには、松尾神社(京都)で演じられた記録汀ぢる。後には永長の初めに天皇が鑑貧されるまでに盛大となり、貴族・民衆の別なく広く行われるようになったのである。さらに専業の田楽集団が生まれ、猿楽等とも競いあって、質的にも充実を遂げ、田楽能を作ることになる。癖熱日本が生んだ田楽に反し、八世紀初頭に伝来した外来文化に根元を持っている。平安末には民衆を中心に一部宮廷人末輩をも含めて盛んになってきている。やはり舞楽の衰退の反動として起こったことは田楽と同じである。したがって内容は、楽天的なコメディであったことは当然である。面白おかしい庶民の笑いが一般侍望のものであったのであろう。
 中国朝鮮から移人された「唐散楽」が源となっている猿楽は、その内容にも魔術・曲芸等の様相が強く、更に日本化が行われて物真似や物語的、劇的な要素が加わる等、広範なレパートリーを持っ庶民的寸劇であった。舞楽の貴族的表出と比べて、酒席においても演じられて列席らに浅者が神の形を民衆の眼前に現わすための方法として、仮面を必要としたことが、能面誕生の大きなボイントである。即ち翁の面は神の現実的表出であり、鬼面もまた同じである。これは能面史の中では、非常に意義あることといわねばならない。
 猿楽のこの画期的な変化は"田楽にも影響を与えぬはずはなく、急遼「田楽の能」としての変容が生まれ、両者競い合っての、能的進展が始まるのである。このとき田楽は、優れた人材が輩出し、先行の猿楽能を上回る隆盛をきたすことになる。即ち一忠・喜阿弥の出現である。以後しばらくは田楽優位が続くのであるが、大和猿楽に観阿弥が現われるに及んで、猿楽能は一新する。即ちまず田楽の長所を吸収し、当時行われていた諸雑芸の美点をも取り入れて、一挙に田楽を圧倒し去るのである。とくに「曲舞」の歌舞調を取り入れ、拍子の面白さに乗って軽快に進行する時流に適合した曲舞の面白さと、猿楽の遅い調子の展開とを巧みに融合させ、新風を案出している。この十四世紀末の猿楽発展は卓抜な観阿弥の才幹によるものであり、大和猿楽の名声は一世を風摩するとともに、現在の能楽の第一歩を踏み出したといえる。ここにきて仮面も、同じく能面として初めての出発を始めることとなったのである。
この猿楽隆盛の裏には、足利義満の強力な援助があったことが挙げられる。
室町幕府が鎌倉幕府にとって変わったために、政治の中枢機関はすべて京都へ移動Lている。
このことは、能の内容に激Lい変化をきたさざるを得なかったのである。平安文化を栄えさせた京都の地には、貴族的文化と生活とが充満していた。足利氏を頭とする実力者である諸大名等は、いわば文化的には粗野な田舎者でしかあり得なかったL、権力者とLて君臨するためには、どうしても、文化的にも早急に残存する貴族文化を追い越さねばならなかった。ここに貴族文化の全面的吸収と消化が始まったといえる。野武士的粗野文化と貴族的繊細文化との混合かb幕府の文化政策は出発する。猿楽能が貴族的な要素を多堂に摂取していかねばならなかったのは、強力な後援者に全く迎八口する立場をとらなければ、生きていけなかったのであろう。彼らを援けるのは春日神社や興福寺ではなく、早急に貴族の文化を身につけることに専念する、将軍足利義満であったからである。
三代将軍足利義満の時代は、足利の鼓盛期であったといえる。南北朝時代の政治の混乱は既に治まり、安定期に人っている。最高権力と財力を持つ将軍が強力なバトロンである。能楽が一挙に花ひらくのは当然といわねばならきい。
義満の生活は、北山文化がそれを物語っている。京都北山に造った金閣寺を見れば理解されるc彼はこの別荘で文化生活を送っている。この性格が直接的に能に反映するのは当然である。 ニニ七四年、東都今熊野で雛岬榊が興行をしている@若き将軍義満はこの演能を見て、観阿弥.世阿弥を始めて認めたという。義満が優れた感覚と文化を洞察する眼を侍っていたことがうかがわれるが、世阿弥が才能豊かな絶世の美少年であったことも、理由の一つでもあろう。
しかし、世阿弥は単なる眉目秀麗な一稚児であったのではない。彼は父観阿弥にも劣らぬ、不世出ともいえる感覚と才能を有していたのである。文学的才能も豊かで、『十六部集』『二十三部集』(いずれも能楽秘伝書)を見ても、その能楽観のたLかさに一驚する。彼の世界観から発し、実践を通Lて築きあげられたこの能楽論と撞劇摘針は、現在もなお能楽界を照らす灯である。
観阿弥によってうちたてられた能の原型ともいうべき形式は、世阿弥によって、貴族的色彩 引を濃厚にし、さらに犬王(近江猿楽)が創成した「幽玄」の気を注入し、現在の幽玄能の基を開いた。
最高権力者による庇護によって急速に伸長発展した反面、これに対する嫉妬と反目の中を切り抜けねばならなかったし、義満が没するや新しい権力者義教は甥の元重を重用して、世阿弥は最高のパトロンを失うこととなる。さらに七十三歳の老齢にもかかわらず、佐漉流罪となり、失意の生活が続くのである。しかL、能に対する清熱は衰えず、金春大夫氏信に対L、その疑問に答える書状を発している。
ともあれ、偉大な師でもあった。観阿弥の指導の下に、犬王・増阿弥等、同時代の名手の至芸を消化、合成L、歌舞を柱とする現代能に昇華させた彼の功績は偉大である。
明治四十二年(一き九)、堀家蔵の『世阿弥伝書』の貴重な資科が発見され、「世阿弥十六部集』と
ようになるまでに、幾多の変転を経験しながらも、能はこの時期に一応の安定を迎える。Lかし、各派の争いや盛衰が現われるのである。
当時まず観世・金春が座を確立してそれぞれの芸風を樹立し、ついで宝生、金剛と四座が形成された。さらに後、秀次の時代に、金春の北七大夫が一派を許されて喜多流を創り、四座一流、即ち現在の五流が完成されることとなる。
大衆を基盤として庶民に奉仕した猿楽は、その後、世阿弥等により能として大成し発展したが、常に権力と上層に結ぴっくことに専念し、遂には大衆から離れ去るということになる。この四座一流の外に存在した群小の座は、逐次衰亡するものが続いたが、地方への拡散、浸透となって、郷土芸能として特色ある地盤を築いたことは重要である。世阿弥自身も、能は地方への進出によって、中央における衰亡期を乗り越え、再び隆盛の時を迎えることもあるであろうと、地方に根を下すことを重視Lている。
地方に場を移した能は、もはや上層にのみ奉仕する必要はなく、現在残された地方芸能や残存する能の使用面、また民俗面等をみても卓抜な表現はなされていないが、少なくとも健康で率直な表示と人間性に満ちている。能のこの一方の在り方、即ち大衆とともに生きたことは、今後の能の進展上、大変価値あることと思います。

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